“擬似的な自然”について考察

たとえば物語のファンタジーに登場するオーク族(足の生えた蛙の子が原型に思えてならない)の肌は緑色だが血の色は青色ではなく赤色が殆どで、そして産毛がないのに光のグラデーションに当たると表面の輪郭がぼやけて発光しているように見える。また、その産毛のないつるつるした緑色の肌をプリズムに透かすと、暖色と寒色のちょうど境目だからか色彩表現、立体表現ともに擬似的ながらもかえって本物らしく映る。

次いで、斜視によって生ずる錯視や、認識の範疇で留まる立体視と記憶の埋合せ置換、そして半ば屈折し倒錯しかけた遠近法について考える。また、倒錯した光源下においての美意識の不自然な迎合や、各々独立した意味を持つ複数のオブジェが同じ光源下に潜む画に見出された超現実的世界と、それの自動書記による言語化を試みた思想家の不毛さについて、最後にその両方を成しえない己が価値と時間の浪費癖を重ねて考える。だが考えることではないし考えても仕方がないことだ。