風邪の神様

ストーブに乗せられた薬缶が小刻みに震えながら、白い湯気をもくもくと吐いている。外では朝からやむことなく雪が降りつづいていて、その日だけ僕の部屋は小さな温室と化していた。しかし夜ともなれば窓ガラスが凍りついてしまうほど寒い。
真っ赤な顔をした子供が布団のなかで熱に魘されている。とめどなく噴き出る汗が体に貼りついた毛布を濡らし、急激な速度で冷えていってはまた体温に溶けこむ。背中がたまらなくむず痒いのは、シーツに接する部分とそうでない部分との温度差を、風邪によって鋭敏になった皮膚の神経がいたずらに感知してしまうためだろうか。境界がどこにあるのか判らない。どれだけ身を捩ろうとも。

長い夢を見ていた。僕は砂浜に坐りこんでいて、視界の先では明け方の海がぽっかりと大きな口を開けている。黒ずんだ紫に侵蝕された太陽のオレンジが目に痛い。まるでそのまま何かの抽象画を模倣したような情景であるから、たとえ人に話したとしても返ってくるのは曖昧な相槌だけだろうと思うが、当時の僕にとってはかなり鮮烈で、どこか懐かしさをも帯びた映像だった。

「砂の粒をすべて数えなさい」頭の後ろで突然知らない声が囁く。微妙にトーンの抑えられた声が、蟀谷に重く響きわたる。僕はそれに従うまま素早い動作で跪き、ゆっくりと地面に両の手を落とす。「一粒でも取り溢したらまた最初からやり直すこと」彼はさらにこう付け加えて命じると満足したのかそれきり居なくなってしまい、そして僕には根拠のあやふやな使命感と、気の遠くなりそうな時間だけが残された。

いきなり大きな音がして目を覚ます。どうやら寝ぼけてストーブを蹴ってしまったらしい。床に落ちた薬缶から溢れだした大量の熱湯が、無慈悲に両足のつねを濡らしている。熱いだとか痛いだとかそんな悠長な判断を下す余裕はなく、ただ僕は反射的に枕元のナイロン袋を破り、なかに詰まっていた氷水を応急処置のつもりでかけてやった。火傷の痕はみるみるうちに赤く腫れあがって、貪欲に水分を吸収しながら乾いていく。皮と肉の離れる過程には表面の色の変化もみてとれた。そのあまりの顕著さに烈しい愛おしさをも覚えたが、あの夢の感触が重なり合わさることでそれはあっさりと萎え、やがて次第に立ち消えてしまった。
朝になると火傷の痕は巨大な水ぶくれに取って代わられていた。腫れの鮮やかな緋色は見る影もない。爪先で用心深く打診するようにして端のほうからそっと皮を剥がしてみると、湿った柔らかい音と共に粒状の液体が勢いよく溢れだした。次々と足のつねを伝い落ちては、指の隙間から床のフローリングにかけて逃げていく。知恵のついた蛞蝓のようだ。
ようやく覗けた桃色の肉のちょうど隆起した部分、その外周をまばらに彩る黄色の膿が美しいマーブル模様を描いているのに気づく。剥きだしにされた脂質が水分を弾いているためだがそれだけではない。まだ形成されて間もないと思われる未熟な保護膜が水の浸蝕を妨げていなければ、この緻密な模様は成り立たなかっただろう。美はたいてい微細な世界に宿り、常に自分達の身近なところで偏在している。いわば過剰な自己犠牲や代償行為のなれの果て。この短絡的な表現を咎める者は、僕自身のほかにいない。

呆然とその光景をみやりながら思う。【風邪の神様】とは一体、何を指し示すのか。かつて彼女はその名前を叫ぶことで、僕を嫌な夢から拾いあげてくれたのを憶えている。きっと今僕を膝の上であやしているあなたこそが、母の象徴であり、同時に赦しや解放の代名詞でもあるのだろう、そして現在に至ってもこの耳に残る御呪いの痕跡は、力学的な存在として許された唯一の神である。このように話を神仏論者のそれに貶め、堕落させ、安易に結論づけてしまっても構わないとさえ思えた。あなたが僕に叱責をくださるのならば。
さて、あれから11年の歳月が流れた。僕はあなたと交わした約束の数々を、今日からすこしずつ破いていこうと思う。無数に散らばるあなたの暗い影、そのひとつひとつを温かい毛布にみたてて手繰り寄せ、附着したイメージを砂粒の感触になぞらえながら丁寧に払拭する。このちっぽけな反乱で、あなたを檻から釈放する。己に課せられた責務を放棄し制約のすべてを解き放つ。拗ねた子供や動物園の猿と同じ動作でそれを行う。ある確信犯的な衝動に駆られるまま、リンパ液が滲みだすまで傷を弄くる、愛でる、嘔吐する、僕は単なる動詞の連なりに、持て余した時間を陰翳していた。あなたを喪ってからも、ずっと。しかしこの火傷の痕もいつかは癒えて、固いケロイドに覆われてしまうだろうか。雪はまだ沈々と降りつづいているけれど。