どんなことがあろうとも、ひとを憎むことだけはしないよう心がけているのだが、たとえば母親との電話が終わったあとなどに、パチンコなんかにお金を使わないでほしいとか、こんな時期だからこそお金をすこしだけでも分けてほしいだとか、そういった邪念につきまとわれることがままあって、そのたびに「ちがう、ちがう」と口にだしていいながら首を横にふる。

いつだったか、MSN メッセンジャーhttp://www.atziluth.jp/rurutia/ こちらの女の子と会話をしているときに、ぼくが4才のころから17才のころまで醜形恐怖症であったことを思いだした。小中高学校の階段の途中におおきな鏡があって、そこに目をあわせることすら恐くてできなかったし、毎日そこを通ることはひとつの試練であった。顔を洗うといった習慣も当然なく、その期間に鏡をみたことは両手の指で数えられるほどしかなくて、幼いころの写真をみても、これはほんとうにぼくなのだろうかと思い、なんだか気が遠くなる。

いまだその気が残ってはいるものの、現在は友達に容姿を誉めていただくことによって、応急処置的になんとか緩和されつつあり、これからどうにかして社会的見地からみて支障をきたさない程度の自信をもたなければとあがいている。これは、最終的には自分自身の手で解決しなくてはいけない問題なのではないだろうか。どうして、こんなにもひとに恵まれているのに、これほど恐ろしい感覚に陥ってしまうのだろうかと、とても歯痒く感じるから。

地元のお坊さん先生が、ぼくのことをよく誉めていたらしくて、何ヶ月か何年ぶりかにほんの一時だけ有頂天になった。病気と友達になって向きあいながら一生涯つきあっていこうといった姿勢は、なかなかもてないものであるとのことだが、今後どうなっていくかは判らない。