アニマ

昼食前に母親から電話があった。家の経済状況についての不満であるとか、職場での人間関係についての愚痴であるとか、そういったことを延々と聞かされ、アドバイスをいくつか求められる。

母親は子供のころから弱いひとであった。ぼくが物心つくころには薬の副作用で体重が75キロまでも増え、何度も入退院を繰り返しては、ベッドでその口から涎を垂らしていた。ぼくを身篭ったときも、大量に薬を服用しながらであったらしく、片輪の人間が産まれたのもむりもないことである。精神分裂病は40%の確率で遺伝し、育て方によっては子供のころから発症するらしい。親は子にまず死を遺伝させるのである。

3才から5才くらいのころの記憶が頭を過ぎる。痩せ細っていた母親が太っていくのをみて、ぼくは「でぶ、でえぶ」と口走った。それを聞いた母親は悲鳴をあげ2階の寝室に引き篭もってしまい、それからは毎日のように父親から殴られ蹴られつづけた。食器棚の角に頭をぶつけて血を流したこともある。そんなことが両手の指では数え切れないほどあった。

保育園に上がるころ、母親が呆けた老人のようなことを陽気に語りはじめ、次の日、保健所のひとたちに連れていかれた。そういったことが5度ほどあり、母親から引き離される恐怖に、ぼくは父親に悟られないよう炬燵のなかで声を殺し嗚咽していた。

ぼくを育ててくれたのは、祖父と祖母である。先天的なものなのか後天的なものなのかは判らないが、祖母は老人性鬱のようなものを患っており、暇があると仏壇のまえで手を合わせていた。「死にたい、死にたい」、そうぼくのまえで漏らすこともよくあったし、社会にでると生かすか殺すか査定するような目を常に向けられるものだということを、口癖のようにぼくに言い聞かせてくれた。人がよいから騙されないようにと、何度も、何度も幼いぼくに言い聞かせてくれた。ぼくは祖父と祖母が大好きであった。

それから小学校へ上がり、朝食を食べていると、突然、母親から驚くことを聞かされた。ぼくのまえに双子を身篭っていたのだが、流産してしまった、それはぼくが生まれたからだというのである。登校途中、そのことだけで頭がいっぱいになり、なにを考えたのか学校へ着くなり親戚の同級生にそのことを笑いながら漏らした。ショックではあったが、子供特有の安っぽい選民意識のほうが勝ったのだろうか。とにかくぼくは肌の色が白く髪の毛も眼も茶色いことから、いじめの対象となっていたので、午前中の授業が終わるころには学校中にそのことが広まっていた。

母親によく隣町のアパートに連れていかれたのを憶えている。盲目になってしまった音楽家の兄が住んでいるらしい。車のなかで待っていなさいといわれたが、いくら待ってもでてこないので、ぼくは黄緑色をした鉄の階段を昇り玄関のドアを開けた。すると、素裸の母親とトランクス姿の男性がでてきて、ぼくはこっぴどく怒られた。いまでは実家へ帰るたび、兄に似てきたといわれる。

ぼくには母親がいない。父親とも血の繋がりがあるのか判らない。誰の子なのかも判らないが、理想の母性像 "アニマ" を求めつづける凡庸な人間であることに変わりはない。

年甲斐もなくだらだらと家庭環境の愚痴を並べてしまった。しかし、育ててもらった以上、親孝行したいと思っている。社会復帰できた暁には、まず DVDプレイヤーをプレゼントするつもりだ。