三島由紀夫著『仮面の告白』の冒頭部分ではないが、3歳以前の記憶がうっすらと浮かび上がることがあって、それはあるひとの言葉を借りれば "偽造された記憶" に他ならない。しかし、2歳のころに父親がコンクリートに埋まってしまい病院へ運ばれたことがあって、そのときの病室は成人を超えても憶えていた。祖母が息をひきとった右隣の病室である。

ユング派の心理学に集合的無意識というのがあるが、それはフロイト箱庭療法と同一の概念を基軸として派生したものではないだろうか。ぼくは自分にしか興味をもてない人間である一方、他人と自分の区別がつかない面もあって、自分の知っていることは他人も知っていて当然であると常に感じている。例えば薬局に並んでいる商品群をみていると、ひとつひとつが製造される行程を想像して、自分がつくらなければいけないと思う。とりあえず、この問題は "両極端は相一致する" という某氏の言葉で一区切りをつけよう。

心身ともに疲れてくると、自分の思考が伝播しているのではないかと強く思いこんでしまうし、平常時も意図的に秘密をもつということがまずできない。考えていることの断片が、無意識下に口や指から発せられるから、それを食い止めるためにどうしてもぎこちなく振舞ってしまうのである。外が雨降りの日は、カーテンを閉めて一人遊びに没頭していた、そのときもひょっとしたら独白めいたことをなにか口走っていたかもしれない。そういえば、現在も、自分のサイトを弄くっているときなど、気づけば口が動いている。

いつか、また、なにもアウトプットできなくなってしまわないだろうか? それが、いちばんの心配事。海馬が悲鳴をあげて休みたがっているんだよ、という誰かの言葉が頭をよぎる。