白い雨

マーフィーの法則』を薦めてくるひとがいた。

窓の外では乳白色の空から雨がやむことなしにぱらぱらと降り注いでいて、そこから漏れ溢れる湿気がぼくを包む布団を濡らしている。淡い夢の奥底で僅かに感じとれる湿気は確実にぼくを蝕んでいることに気づいていようとも、運命の変わることがなによりも恐ろしく、結局なにもしないま優しいままどろみのなかへ堕ち、ブレイクのかけられない無限ループする思考に冷ややかさを見出す。

ぼくの一挙手一投足、あるいは思考の連なりかたが歯車を乱しているような気がしてならない。いつからこうなってしまったのだろう。予期不安と分離不安とが無意識下で鬩ぎあっているのだろうか。2通りの思考が錯綜しあっていてダブル・バインドを引き起こしている。

コップに注がれた烏龍茶を飲み、煙草を吸ってからまたコップを手にとる。指から天井へ流れゆく煙は、まるでぼくの記憶そのもので、残酷な健忘の森へ誘われていくかのようだ。

フランスの詩人、ジャン・コクトーは著書『阿片 - 或る解毒治療の日記』のなかでこう語っている。

人間の心のうちには、定着用の護謨糊みたいなものが存在する。つまりそれは理性より強い虚妄な感情であって、それが彼に、ああして遊んでいる子供達は、一寸法師の後裔であって、やがて大人を追い出してそれに取って代ろうとしている、明日の大人ではないと思いこませたりするのだ。

それなのに、生きることは実に水平的墜落だ。

だから、この定着用の護謨糊がない場合、完全にまた不断に自らの速度を意識する生活は堪え難いことになる筈だ。幸にこれあるが為に、死刑囚も眠ることが出来るのだ。

ところが、この定着用の護謨糊が僕には欠如している。

未来へ影響してしまうから、ぼくはなにかを知ってしまうのが恐い。運命の輪というのは入れ子構造になっていて、そのことばかりを感じとり考えてしまうのを必然としなければ、無限につづく煉獄から抜けだせないだろう。

瞳に映るものすべてがターニングポイントにみえる。