Archive of 10 years

常光寺サイトはある面で自身の真骨頂ではあるが、先日 Myspace で公開したところフランスの方に「これはまだ作りかけの段階なのですか」と訊かれ、自分でも思い当たるところがあるのか正当なメッセージのように感じられた。

過去を振り返ってみると、2003年や2001年のサイトはそれぞれ違ったところを掘り下げているし、更に遡れば Web Archivesにある1997年〜1999年のサイトなどは、現在とは逆に描くことを主旨としている。それらを観ると、制約の多い環境下で可能な限り枠の中に可能性を見出しながら描いていくことの楽しさや新鮮さが伝わってくるし、不器用ながらも一貫したスタンスを貫徹しようとした必死さが感じられる。

懐古主義的な面は現在もあまり変わらないが、ただひとつ大きく異なるのは、当時外界に対して何らの助力も期待していなかった点だ。人間には大きく分けて2種類存在し、外へ開けていくタイプと内側へ掘り下げていくタイプがあると聞いたことがあるが、当時は全くの後者だった。

しかし、それでも外界からの助力や恩恵は大いに受けていたはずだ。言換えれば無知であるがゆえに全能であったし、自らがそう思い込み完結していたからこそ成せた内的世界だったように思われる。ただそれゆえに外界からの通信や刺激がいっぺんたりともあろうものなら瞬時に崩れてしまう脆さも同時に共存している。特に2003年のサイトには、何か大切なものを守ろうとする意思が強く残っているが、それはいつの間にか手放してしまったようだし、興味本位でそれが何だったか思い出そうとすれば、そもそも何を思い出そうとしていたのかを忘れてしまう。

手放してしまったのは、恐らく外界からの恩恵を知り、自らそれを求め依存するようになってからだと思われる。「神が降りる」、或いは「細部に神が宿る」といった、現在では手垢にまみれた言葉の示すとおり、確かに自己表現には外的環境からの刺激や配慮がついてまわるのが常である。人間はそれらを知覚できるのみで目視はできないし、よって否定も肯定もする必要はない。しかし、自らそれに近づこうと手を伸ばし、存在の有様を言葉にして証明しようとした瞬間に、それらの思考は記憶もろとも失われてしまう。

そして、仮にその存在を知覚した状態で物事に準じても、人間は魂の持つ本能や広義の法則からは逃れられず、最終的には物事の成果や利益に見合う対価を他者≠自分自身に支払うことになる。そこに至るまでのプロセスは違えど、結局は自己犠牲による他者救済の道を辿り、お払い箱となった後は必然的に、今度はひたすら内へ掘り下げていく作業を強いられることになる。

それでは、その繰り返しの過程で人間は何を求めるか。「極まりて陽生ず 陰極まりて陽兆す」の言葉通り、自らの原点から沸騰点や氷点まで求めた数値の差分の、時間毎の合計値である。陰も陽も関係なく、沸騰点と氷点の距離は紙一重であり、零度から百度へ移動するまでの一瞬一瞬をコントロールし、それをキープすることで自分の周囲に熱量・エネルギーを常に霧散する。この一種のトランス状態は2週間以上継続させたことがなく、脳にも相当の負荷がかかるし他人との接点があれば逆に何もできなくなってしまうが、しばらく状態を保って何か物事に準じれば相当のものを生み出すことができ、当分は聖域のような場所に篭って、どことも接点を持たずに過ごせた経験がある。

最後に、人間の脳はとにかく過保護で、熱暴走を避けるためクロック数に限界があり、記憶の美化や偽造もままあるが、それ以上に肉体の持つ限界は少々物悲しくもあり寂しくもある。私たちは生まれた時から Assiahに深く根を下ろしてはいるが、天辺に伸びている Atziluthから Yetzirahまでは上から一方通行にしかこちらと繋がっていないのだから。せめて懐かしい眼差しで見上げていたいものである。

【参考文献】

水の凍る温度を今では氷点といい、その沸騰する温度を沸騰点と名づけていますが、この間がファーレンハイトの目盛りでは百八十になり、レオミュールのでは八十に分けてあります。若し温度の基準としていつもこの二つの点をとるとするならば、その間はやはり十進法に従って分けた方が便利だと考えられます。

ところが、ちょうどそれにかなった目盛りが、その後、千七百四十二年にスウェーデンのセルジウス(註四)という人によってきめられました。つまりこの二つの温度の間を百に分けたので、最初はどういうわけか、沸騰点を零度、氷点を百度としたそうですが、今ではそれを逆にして氷点を零度、沸騰点を百度としています。

石原純著『私たちの日常科学』より引用