迷信とパラドックス

シュルレアリスムという未完の思想においては、「定義の前にかならず体験がある」という点にのみ共感している。シュルレアリスムとはまず「心の純粋な自動作用(オートマティスム)」であり、次にそれを体現する「思考の書き取り」――つまり自動記述によって、主観から客観へ、一人称から非人称への移行を試みているが、私はいわゆる「詩的霊感」というものの存在については肯定しかねる。源泉は外部ではなく内部に底流し、まして人間が自ら能動的に働きかけたり頼るものではない。

この思想が未完に終わったのも、不可視的要素への欲求や迷信が自意識を煽り、少なからず他者との境界線を浮き彫りにし無意識を侵食するといったパラドックスを生みだしていたからではないだろうか。

西欧文明の世界には、最後に残った迷言として、また創造の神話のみじめな残滓として、芸術家の創造力という伝説がまだ存在していた。この神話を、最も人の心に食い入るような客観的方法によって攻撃し、完膚なくやっつけてしまうこと、それがシュルレアリスムがまず行った革命行為のひとつである。

「作者」は専ら受身の役を演ずるのであるとシュルレアリスムは力説し、詩人が、自らの思考の自動的経緯を探り、その中のあらゆる偶発事項をすべて書きとめるのと同様に、画家は、自らの視覚的霊感が示唆するものを画用紙の上、あるいは画布の上に投げつける。

マックス・エルンストシュルレアリスムとは何か?』より