再考

ここのところ対人面にまで論理的思考の欠如が顕になってきており、コミュニケーション不足を指摘されている。そのつど仕事や技術というフィルタリングの省かれた状態の自分を省みては、人にできて当然のことができないという相変わらずの学習能力の乏しさを自覚するも、意固地な性質が邪魔をし、無駄にくっついた言葉や理論、或いは意味の履き違えられた力で時に自他共に捻じ伏せようとすることもままあった。

仕事の制作では不必要な、偏執的とまで言われた神経質さを忘れ、理詰めのデザインから離れてリズム感のみでオブジェクトを配置するようになり、そのリズムを大小の体内サイクルの枠組みにこじつけた結果として生じた数字から公約数・公倍数を割り出し迷いがなくなったように感じる。そのつもりでも、手頃な醍醐味である偶発性は所詮ソフトの機能に依存するし、年を重ねるにつれて要となる数字が増えることからリズムは崩れてしまう。迷い迷わなくなりまた迷う、スポイルされてもされなくてもその繰り返しは変わらず続き、プロセスにのみしか意味がなく、意味のあることは忘れてしまう。増して今年は予感していた通り地軸のずれる変動の年、当然のように傍にあった恩恵も感知できなくなるほど想定外な出来事の連続だった。

視力に頼るから乱視と遠視が顕著になり、様々な人に触れ視野が広がったことで外から映りこむ光も薄くなった。その代わりに嗅覚が戻り聴覚が鋭敏になる(ということにしている)。つまり錯覚が錯覚そのものになり、懸念材料のみ表面化した現実に大きくのしかかってくる。それと同時に外部からインプットされる情報が桁違いに多くなり、アウトプットするためにある手が処理に追いつかないうちに手を使う目的がすり変わった。進化したわけでも退行したわけでもなく、これまで壊死していた感覚がフル稼働しこれまでできなかったこともなんとかクリアしたが、今度は人に伝えるための新たな共通言語が必要になる。それを拒めばコミュニケーションの断絶を生むし、技術や数字云々といったものを持ち出すようでは本末転倒なので、自然と言葉の檻から抜け出し部屋の外へと足が向く。本屋であったり公園であったり個展やライブであったり、両手両足を動かし触覚を使えばまた物事に対する見方や感受点も変わってくる。個展という場では有り難いことにまだアドバイスを頂戴できたりもする。

デザインの参考書といえば数冊しかなく、ベルメール/イマージュの解剖学やマンディアルグ/大理石、フェルマー/解析幾何学、他はプログラミング言語などのリファレンスで、偶に開けば煮詰まった時の解決策になるようなもの。クライアントを納得させるために後から引くガイドや、スランプの時に否応なく切るグリッドと大差はなく、人の心から目を操作するためにあるデザインの目的自体を曇らせてしまう。例えばショッピングモールなどユーザーが予め固定化された情報を求めてくるといった前提があり初めて有効となり得る理屈は楽しいものだろうか。プラットフォームが仮に変わったとしても、少なくとも両者共に一時の高揚感しか得られないだろう。誰かが発見した時点で上場している商用デザインや偏った視点での一般論ばかりに目がいき、ミイラ取りがミイラになるというイタチごっこの悪循環に、いつかしら私も染まっていたことに気づく。消耗品のような知識ばかり上乗せされ、純真に物事を楽しむことを忘れ、本当の教養の意味すら失っていたように思う。数年ぶりに神保町へ足を運んでおいて、本屋にも寄らずただただ増殖した飲食店に戸惑いつつも食べ歩いたり、街路樹が強い風にざわめく様にうきうきしてそのまま帰ってしまうのも考え物だが…。

全く未経験の分野の仕事に就き末端の末端として一から始めた方がよいかとも思っていたけれども、その考え自体がおかしく、それこそ腐食に染まり諦念に近い心境に陥っていた証拠だと、国内外の素晴らしい作品に触れて気がついた。これまでのふやけた心境も恥ずかしく思ったりもした。思い出したいのは素人のころの真摯な姿勢で、懐かしむでもなくただあのころの好奇心や匂い感触、なによりも心地よさを伝えていくことだけを大切にしていきたいと思っている。語る必要もなければ作る必要もないものだけれども、手を放れてしまえば退屈せずには済むし、また絶望し腐ってしまうまでの時間も引き延ばせるだろうから。

とはいえ、最近は UNA にかぶれ無機質な幾何学オブジェばかり描いていて、水と空気が美味しいというくらいの話しかできず面白くないので、中途半端なままのグラフィック・映像を突き詰めていきたい。

  • こんなことを言いながら、http://www.openspc2.org/reibun/QuickReferenceActionScript/ こちらのリファレンスや大学の講義などにはくまなく目を通しています。本屋やレンタルショップでは目隠しして色々引いてきます。体系化した情報を時系列に判りやすく伝えることもできたほうがよいと思い、また話のネタにもなるので。