おばあちゃんの膝枕

思考が前向きになっていき、徐々に記憶の抽斗の戸っ手であるフラッシュ・メモリが再生していくにつれ、過去の記憶が濁流のように押し寄せてきました。

16歳だったころ、幻覚や幻聴に悩まされた挙句、ぼくは向精神病薬と睡眠剤を日本酒で大量に飲み干してから首吊りをし、気づいたら3日後の病院にいました。薄ぼんやりとした記憶のなかで優しく焼きついているのは祖母の膝枕の感触で、頭をよしよしと撫でてくれていたのは忘れられません。乳白色の空は雨をしとしとと降らせていて、退院後に連れていかれたのは車で1時間のところにある保健所。そこにいれられたら2度とでられなくなると本能的に感じとったぼくは断固それを拒否し、ついでに車の抽斗から3万円をくすねてきました。

それから高校を中退し、自室に引き篭もり C++ の勉強に明け暮れる毎日を送っていたのですが、周りの方々に恵まれ次々と新しい玩具(スキル)を手にいれていきました。媒体は無機質な PC でも、10本の指さえ動かせることができたらそれでよかったのです。常に内包している葛藤を湾曲してでも具現化できることの至福を知りました。

2年後、富士ゼロックスDTPデザイナーとして腕一本で入社し、お盆に実家へ帰ったころ、ほとんど呆けていた祖母はただにこにこと頷きながらぼくの話に耳を傾けてくれ、そのときの笑顔はしっかりと目に焼きついています。

10月になりいつもの業務をこなしていたころ、携帯のコール音がけたたましく鳴り、あとになって留守電を聞いたら、祖母が危篤であるとの伝言が母親の声で録音されており、ぼくはその場で真っ白になりながら仰天し、上司にその旨を泣きそうになりながら伝え、その足ですぐさま実家へ帰りました。

病室の ICU にはいると、喉に穴を開けられた祖母がいて、傍にはシリンジポンプがありました。ぼくの顔をみると安心しきったのか、「ありがとう」とだけ掠れた声で呟いて、それを聞いたぼくは急ぎの仕事があったことから東京へ帰ったのです。しかし、それから3日ほど経ったころ、夢のなかに祖母がでてきて、ぼくに膝枕をして頭を撫でてくれました。案の定、早朝に父親から電話がかかってきて、祖母が逝ってしまったとの知らせを聞いたのです。

どうして仕事を放り投げてでも傍にいてあげられなかったのか、悔やんでも悔やみくれません。無償の愛を注いでくれ、いつだって優しく見守ってくれた祖母はあっけなくいなくなってしまったのです。

法事の日がちょうど社員旅行と重なる日で、部長に法事へいかせてほしいと頼んでも拒否されました。それでも無理矢理に法事へいったのですが、そのことで会社への不信感は積もるばかり。桑沢デザイン研究所に通いたかったこともあり、結局5ヵ月後に迷わず退社しました。実家へその旨を伝えると、父親が「おばあちゃんもおじいちゃんも天国で泣いているわ」といったのは忘れられません。桑沢デザイン研究所にも学歴の足りないことから通うことはありませんでした。

飼い猫が死んでしまった日のこともよく憶えています。夜中から猛吹雪の日で、早朝5時30分頃に玄関のまえで飼い猫は家のなかにいれてくれと鳴きつづけていたのですが、ぼくは起き上がることさえできず放っておいたのです。起きたらお腹を空かせた飼い猫は「猫いらず」という毒薬を食べて死んでいました。

祖父が危篤の日も起き上がることができず、死に目に合えませんでした。幼いころはその背中におぶさり近所の駄菓子屋や玩具屋によく連れていってもらったものです。母親は統合失調症で物心ついたころから入退院を繰り返していて、父親も仕事一本のひとでしたから、ぼくは祖母と祖父に育てられたようなものなのです。それなのに、恩を返すどころか期待を裏切り恩を仇で返してしまったのです。

このような人間に罰があたらないわけがありません。相変わらず何年も苦痛に囚われており、祖母と祖父のことを思い出しては嗚咽しているのです。