マルキ・ド・サド『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』

要するに良心の呵責というのは、この最初心に萌した衝動の純粋素朴な結果なのであって、習慣のみがこれを破棄することができる。われわれはかかる感情を断乎として克服すべく努力せねばならない。(P 80)

けれども教育というものは、ほとんどつねにあたしたちを誤らせるものだから、教育が終わった途端に、外部の対象とのあいだの電気流体によって惹き起こされた炎症、つまりあたしたちが情熱と名づけている効果をもった働きが、あたしたちの習慣を善あるいは悪に決定づけるべく、やって来るのよ。もしこの炎症が、神経流体に圧力を及ぼす外部の対象の作用に抵抗する器官の働きの鈍さによって、あるいはまた、この圧力の効果を伝達する脳の運動の緩慢さ、さらにはまた、この流体を運動させるべき準備体勢の不備、等々によって、はかばかしい活気を呈さなかった場合には、この感受性の効果はあたしたちを美徳に決定づけるのよ。ところがもし反対に、外部の対象があたしたちの器官に強烈な作用を及ぼし、猛烈に器官の内部に侵入し、そしてそれが、あたしたちの神経内部の空洞をめぐりめぐっている神経流体の微粒子に迅速な影響を与えるなら、この場合、あたしたちの感受性の効果は、あたしたちを悪徳の方向へ決定するのよ。(P 150)

神が大多数の人間を永劫の呵責に遭わせることができるようにしか創らなかったということは、明らかなようだわ。だから、その行動によって無限の罰をわが身に招き寄せるかもしれない人間ばかりを創るよりも、いっそのこと、石や植物しか創らない方が、よっぽど善良で、理性的で、公正だということが言えないかしら? 罪に落ちる危険のある人間を、たった一人でも創り出すほど、陰険で意地わるな神は、決して完全な存在と見做されるわけには行かないわ。完全どころか、狂気と不正と悪意と暴虐の塊りのようにしか思われないわ。完全な神を作り出すどころか、神学者たちはこの世にある限り最も嫌らしい幻影しか作らなかったのだわ。(P 190)

『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』より引用