クリス・カニンガム『Rubber Johnny』他・奇形作品

ラバー・ジョニー [DVD]

ラバー・ジョニー [DVD]

2005年に日本で発売されたクリス・カニンガムの最新作。突然変異し奇形となった子供、ラバー・ジョニーが両親に地下の煉獄へと隔離されてしまい、周りに何もない薄暗い監獄の中で自身を楽しませるための方法を探求していくといった映像短編。購入したもののなかなか観る心境になれず、友人に貸したので公式での情報しか知らないのだが、ナビゲーションの位置が非常に判りづらい割に『info』ボタンクリック後のスクローラーまでのマウス移動が気味悪いほどスムーズで、一瞬操られているような錯覚に陥ったのを憶えている。

本編の映像は、音楽情報誌『CROSS BEAT』で Radioheadトム・ヨークがただ「気持ち悪くなった」とだけ評しており、万人にとってその一言に尽きる点がかえって稀に感じられるが、恐らくは奇形児ラバー・ジョニーの動きと Aphex Twin の音楽がミリ秒単位でシンクロしているからこそ為せる業だろう。幻覚的で実験的な映像短編と銘打たれているが、完璧なリズムの中に恣意的な不協和音が仕込まれているのだとすれば、一般のテレビコマーシャルなどとは全く正反対の制作フローがあったにちがいない。

以下はこの映像短編の底本になったのではと勝手に予測してしまった書籍の紹介。例えばデザインやムービーが持つリズムを万人用に最適化するまでの経緯、或いはユートピストや分裂病的な気質の人間が原型を探求していく過程に容易に結びついてしまう。

名づけえぬもの

名づけえぬもの

もはや微動だにせず、落ちくぼんだ眼窩は正面を見据え、まじろぎひとつしない。涙が肌をつたうことで、ようやく眼の存在がわかる程度の感覚しかない。彼は喋る以外のあらゆる能力を失い、それならばそうなる以前の自分や周囲の出来事でも語っておればよさそうなものだが、語るべき過去も事件も何ひとつない。持ちあそぶガラクタひとつないのである。彼はただ喋ることが中断される日を求めて、それまで休みなく喋りつづけるよりほかない。

私はお喋りする大きな球だ。ただわたしがそれについて喋っているものは存在しないし、あるいはひょっとしたら存在するのかもしれない、とにかくどっちなのかを知ることは不可能で、だいいちそんなことは問題ではない。

お喋りする大きな球。のっぺりした卵形の球体には、二つの眼窩の窪みしかなく、鼻も性器も余分なでっぱりはことごとく削ぎ落とされている。頭脳とは言っても、思考は黙りこむためにぎりぎり必要な努力を重ねているだけで、とてもそれは「考える」などと呼べるしろものではない。思考もなく、語るべき素材も何もなく、ただ喋りつづけるだけの小説。

トリストラム・シャンディ (研究社小英文叢書 (264))

トリストラム・シャンディ (研究社小英文叢書 (264))

男子出生にまつわる観念連合劇。ジョイスプルーストの先駆となった世界文学史上屈指の型破りの傑作。発表から10年後に世に問われ非正統派の大代表作となった。

私めの切ない願いは、今さらかなわぬことながら、私の父か母かどちらかが、……、なろうことなら父と母の双方が、この私をしこむときに、もっと自分たちのしていることに気を配ってくれたらなあ、ということなのです。……

「ねえ、あなた」私の母が申したのです。「あなた時計をまくのをお忘れになったのじゃなくて?」――「いやはや、呆れたもんだ!」父はさけびました。……「天地創造の時このかた、かりにもこんな馬鹿な質問で男の腰を折った女があったろうか?」。え? 何だって? 君のおやじさんは何て言ったんだって?――いえ、それだけです。ほかには別になんとも。

トリストラムの父は、出産の際、陣痛によって生まれてくる子供の頭部に圧力を加えるのはよくない影響を与える、人間の名前は人間の性格に影響を与える、鼻の大きさは人間の能力に影響を与える、などという偏執的な意見を持っていた。

トリストラムが懐胎されたのは1718年3月第1日曜と第1月曜にはさまれた夜であった。彼の父は極端に几帳面なため、第1日曜の夜のみに妻と寝、その夜大時計のねじをまくことにしていた。そこで彼の母は観念連合の結果、時計を巻く音を聞くと、すぐにもう一つのことを思い浮かべた。その逆も同じ。

子供のころの記憶に、望遠鏡レンズのような黒く靄がかった視界からエジプトのピラミッドやスフィンクスを覗くというものがある。夕闇の落ちる部屋のなかでひとり観た中世映画からは匂いが漂ってきたし、家具もそれなりに染められていった。24歳の転機には自身が原始竜の化石となり赤い空と青い海との間を絶壁まで飛んでいく夢を見た。現在は2004年より以前の記憶が嘘みたいに抜けており、現実に起こり得たことよりも、でっちあげの偽造された記憶のほうが色濃く存在感を帯びている。海馬と小脳あたり、移植されるものならされてみたいとすら思う。

父は血液型がBであるのにも関わらず妙なところに厳格で、戸が数ミリ開いているだけでわざわざピシッと音をたて閉めなおしたし、母は何を考えているのか当時22歳の私に昔つけていたという日記を手渡し、読んでみれば父と行為に至るまでの経緯(「ただしさんが布団にもぐりこんできて○○○した。まさきがいたから燃えた」といった内容)や、出産時に産婆さんが私をトイレのすっぽんで吸い出したこと、はたまた産婦人科医への浮気心(「ダメダメ、わたしにはただしさんがいるんだもの」でちゃんと括られていた)、最後に少々病的なこと(「実家で飼っている黒猫が私の赤ちゃんを殺しにくるので眠れない、絶対に渡さない」といった内容)も記してあった。よくもまあ、たいしてひねくれずもせずここまで育ったものだと我ながら思うが、頭蓋骨が多少変形しており天辺に窪みがある。

上はそんな風にして育った私が20歳のころ躍起になって探して観た映画。レンタルショップの店員に聞き出してまで借りてきて観たものの、作品全体から疫病や死臭のまとわりついた悪意しか感じられず、腹がたって巻き戻さずに返却した。全編が芝居仕立ての宗教劇で、奇跡の赤ん坊ベイビー・オブ・マコンを受胎した老婆の胎盤を、出産祝いに衆人が分け合いながら食べているシーンや、ラストで死んだ後のマコンの肢体を衆人が刃物で順繰りに切り取っていくシーンには閉口した。ストーリーテラーである空中ブランコの道化師からはいわゆる本物の匂いが漂っていた。